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杭州・慧因教院趾(4)
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  1. 慧因院の説明と現状の報告
  2. 玉岑山内を踏査
  3. 中天竺寺
  4. 慧因院年表(本ページ)


西暦 元号年月 事項
927 天成2年 呉越武粛王銭鏐によって創建され、当時は”慧因禅院”と称した。
1085 元豊8年 高麗僧義天が入宋。浄源から華厳を学ぶ。
1086 元祐1年1月 晋水浄源が、住持長老の善思に代わって開講住持(『慧因教蔵記』)。義天帰国。
1086 元祐1年12月18日 章衡が『慧因教蔵記』を記し、蒲宗孟が立石。
1087 元祐2年 義天帰国後、青紙金書の晋訳華厳経三百部を浄源に供養。義天は更にこれを収蔵する華厳閣建設のために施金。
1088 元祐3年5月 浄源の弟子の慧因院知事僧の晋仁が、同州の興教寺の例に倣い禅院を十方教院と改めることを上申。(『謹奏杭州乞将慧因禅院改為十方教院住持事』寺志巻九)
1088 元祐3年8月28日 章衡が『敕賜杭州慧因教院記』を記し、楊傑篆額、葉伸立石。(維那履淵、監院晋仁、勾當廣潤大師曇眞、首座道燐、通義大師子寧、住持伝賢首祖教沙門浄源が列名
1088 元祐3年11月 浄源入寂。寺の西北に建塔。(『晋水法師碑』)
1098 元符1年  冬 高麗の遣使が慧因寺に白金数千百両を附し、華厳経閣を造立してそこに盧遮那仏普賢文殊菩薩像并供具等を置くよう請う(華厳閣記)
1099 元符2年 義天の施金で慧因寺に華厳経閣を賜る
1101 建中靖国1年3月1日 『杭州慧因教院華厳閣記』が立つ。蒋之奇立石。撰者不明。
1101 建中靖国10年5月 義天寂(47)(高麗粛宗六年、此歳高麗洪円寺大蔵堂九祖堂建立)
1104 崇寧3年12月 神鑑大師希仲が前住浄源に代わって慧因院に住持するべく勅差が降る(『尚書省牒』寺志巻七)
1122 宣和4年 道通『華厳法相槃節』に文質が序す(文質は後序で道通を盧山羅漢院前住とし、臨安府南山慧因教院にて開版される。1149年開版於慧因寺)
1127 建炎1年5月 宋朝南遷
1132 紹興2年 杭州(臨安府)を行在と定む
1138 紹興8年 孟春初6日 平江府崑山能仁寺沙門義和が『円覚経大疏鈔』を麗本と写本とを校訂。門人元{ャ=言+慧}が開版
1142 紹興12年 慧因講院住持義和が弁才大師思彦や円常大師道僊と共に、『華厳旨帰』を刊勒
1145 紹興15年 慧因講院住持義和、高麗将来の経疏類を校訂開版し、入蔵を実現
1146 紹興16年 慧因教院住持義和、慧因教院で孔目章を開版
1147 紹興17年 可堂師会が『五教章焚薪』を著す
1149 紹興19年1月望日 明悟大師道通の『華厳法相般節』が慧因寺で開版される
1149 紹興19年 冬 義和,平江府華厳寶塔教院に住して高麗本『法蔵和尚伝』を覆刻
1165 乾道1年仲秋既望 慧銑が師会の『般若心経略疏連珠記』二巻に序し、師会を述鈔大家として嘆賞
1165 乾道1年9月望 義和が慧因寺で『華厳念仏三昧無尽灯』に自序す
1166 乾道2年 師会『復古記』の著述に着手するも未完の侭入寂。善熹に続稿を託す。(於慧因寺)
1169 乾道5年 義和が高麗まで赴き将来した智儼の『金剛般若経略疏』を宝幢教院如宝が開版
1171 乾道7年 『明宗記』成る
1180 淳煕7年 慧因寺住持に清素が選ばれ、稽首受教する者、日に数百人。(宋高麗寺答付碑陰記 寺志附録三丁)
1192 紹煕3年 善熹が慧因寺に来る。(伝記に晩年11年間慧因寺に居たとあるより逆算)
1192 紹煕3年7月 善熹『復古記』を補足開始(『復古記序』)
1193 紹煕4年 『釈雲華尊者融会一乗義章明宗記』の後序が書かれる
1204 嘉泰4年 善熹入寂(享年七十七歳)
1218 嘉定11年 武林沙門慧因希迪が『集成記』を著す
1227 宝慶3年1月23日 12月25日、住僧如訥示寂。丁)
1227 宝慶3年1月23日 後住に清遠(前住持平江府華厳宝塔教院僧)が任命される(『高麗寺尚書省牒碑』寺志附録五
1231 紹定4年11月15日 高麗寺住持に如介(前住嘉興府東塔廣kウ院伝賢首宗教僧)が主僧指堂講師6月14日示寂により任命される。(『高麗寺尚書省牒』寺志付録 七丁)
1314 延祐1年6月 慧因寺住持慧福が『大功徳主藩王請疏』を記す。(寺志巻七、9丁)
1317 延祐4年 佛智霊源大師住持華厳宗主明教が『捨田看閲大蔵経誌』を立石
1367 至元丁未 兵火によって建築物の大半が焼失(『重建慧因寺華厳閣疏』)
1757 乾隆22年 Cの高宗が南巡の際にここを訪れ、法雲寺の名を賜る。
清末 慧因寺は徐々に衰微
1958 文化大革命によって完全に破壊される。(売店のおやじと浙江省仏教協会秘書長談)
1996 3月 吉田叡禮,中天竺寺を拠点に慧因寺を踏査。現在は繊維工場と理髪店が建っている。南面する丘から南房と刻んだ石を発見し、往古を偲んで感涙に噎ぶ。


  補 記


■ー紹興年間(1131-1162)ー
 義和が住す。
 このころ、慧因寺は科挙の省試の主会場に充てられていた。
 『咸淳臨安志』巻七八「広果寺」の項に「紹興間、分省試於両浙、以慧因為大試院、広果別試院」。

■−乾道年間(1165-1173)− 師会(1102-1166)が居す。義和、普観などが住す。

■寧宗(在位:1194-1224)より金修閣の額を賜る。

■理宗の時(在位:1224-1264)
 易菴禅師が住して華厳を講じ、理宗より「易菴」二字を賜り、石に勒してこれを土中に埋めた。また、禅院を“講院”に改めた。


■明朝正徳(1506-1521)年間、
 戦争があり、徴税過重、僧侶も労役に就かされ、僧徒は星散、堂宇は荒廃して華厳経閣の遺跡も不明となった。そこで寺に留まっていた僧は復興の志を立て、慧林萬松 (号双徑、臨済宗第二十六世、1482-1577)を慧因寺に請うた。萬松が華厳経を講説したところ聴衆は雲集し、その数は日に千人に達する程で、地方官の憎悪さえ招いた。

■萬暦年間(1573-1615)、
 陳抑菴なる人物が、萬松の高足である易菴如通、妙空悟玄、無際明慧ら三師を招請して入寺させる。三師は力をあわせて天王殿、大雄殿、輪藏閣、妙應殿を修復し、次第に寺は復興した。なかでも特に易菴の力は大きかった。時に易菴は、宋代にも易菴と号する人物が居たことを知らずに、地下から"易菴"と書かれた宋代の御書碑を掘り出し、三生の縁を感じて、天王殿、大雄峰殿、輪蔵閣、妙応殿、鐘楼、禅堂などを重建。また臨済宗第二十七世である無際は、萬暦六年(1578)、慧因講寺を重修して碑を建てている(現存)。さらに無際の徒である月印は華厳経閣を再興し、また南宋寧宗御書の額を得て旧観を取り戻した。さらに無際の徒である月印は華厳経閣を再興し、また南宋寧宗御書の額を得て旧観を取り戻した。易庵・妙空・無際の下からは各々三派が起こり、活気を帯びた。


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