調査日:1996年2月23日〜29日
個人的に2月10日から3月6日にかけて中国へ入国し、香港─上海─常州─杭州─蘇州─上海と旅をした。杭州では、浙江省仏教協会秘書長・李祖栄氏の御厚意により、同協会が置かれている中天竺寺に泊まらせて戴いた。ここを拠点に一週間、慧因院跡を重点的に調査した。
慧因院は、 臨安府(現在の浙江省杭州市)に属し、西湖の南西、玉岑山に南面し、北は兎嶺・赤山を背し、二水が合流して寺門の南を繞っている。龍井や三天竺、霊隠寺の付近に在り、山清水秀、かつ水路を使えば他州との交通にも極めて便利な場所に位置する。
北宋代に華厳教団を興して華厳中興教主と称された晋水浄源(1011〜1088)が、元祐元年(1086)一月、当時の杭州知事・蒲宗孟の請によって入寺した寺である。また、南宋初期には主に華厳関係の諸本を集めて治定・開版し、遂に華厳典籍の入蔵を実現させた円証(澄)大師義和(ー1138・1165ー)や、華厳の宋朝四家に数えられる法真大師師会、武林希迪、そして師会の弟子の善熹などが住した。宋代における華厳復興の象徴的な寺であり、常に多くの華厳文献を蔵していた。
元豊八年から元祐元年(1085-6)にかけての足掛け二年間にわたって入宋した高麗国の第四皇子義天僧統(1055-1101)は、信書を介して交流していた頃から慕っていた晋源に師事した。慧因院には、義天によって多くの逸書が高麗から齎され、同寺の教蔵は極めて充実した。さらに義天は、帰国後に使者を遣わし、青紙金泥『華厳経』三部、およびこれを納める教蔵の資を贈り、同寺には華厳閣が建てられた。秀麗な高麗風建築であったという。
これを機に、慧因院はそれまでの禅院を改め、杭州で最初の華厳を宗とする十方教院となった。その後も慧因院には高麗からの使者が度々訪れ、献上物を施与するなど、高麗との交流が盛んであった。この寺が、俗に「高麗寺」と呼ばれるようになった所以である。その密接な関係は元朝に至るまで私的に行われた。清代には高宗から「法雲寺」の額を賜るが、「高麗寺」の名は、近年になって破壊されるまで通称として知られていた。
浄源は講義や著作活動を行うと共に、幾つかの経疏類を治定、開版、あるいは重校した。このことは、宗密以降奮わなかった華厳教学が復興する原動力となる。この頃から、自らを賢首教観沙門と名乗る人物が表れ出したことがその証拠となろう。しかし、浄源の思想は天台の学僧や儒学者などの知識人一般によっても好まれた宗密の思想による影響が強く、彼が澄観・宗密の文献を優先的に世に出した為、智儼・法蔵の教学は暫くの間、殆んどの人に理解されていなかった。宋朝の仏教では、円覚経・楞厳経・起信論・肇論などが、宗旨を問わず盛んに研究され、これらを通して華厳も理解されていた。華厳を中興した浄源なども諸宗兼学を推奨し、諸教融合的な総合仏教の気風を築いていた。当時は華厳教学を宗とする者以外に於いても澄観・宗密の影響が濃く、そのため華厳の教学は禅や天台との接触を許す傾向にあった。特に法蔵の五教判によって終教、もしくは頓教と判じられた如来蔵思想の系統が人々に歓迎されていたため、終頓二教と円教との区別が厳密ではなくなっていたのが事実である。
ところが、浄源の示寂より約百五十年余り後、義和が浄源のやり残した書籍の開版や、華厳文献の入蔵を実現し、これが機縁となって慧因寺には智儼・法蔵の立場に立脚して旧来説を非難する師会(1102-1166)や善熹(1126-1204)、希迪(-1202-1218-)などの人物が表れ、それまでの華厳教学は新たな局面を迎えた。
師会によって終頓二教と別教一乗との差異を峻別する教学が論じられ、この説に善熹と希迪が乗じた。彼らは澄江に住む観復と、華厳の教判をめぐって激しく論難往復を交わしている。
ゥ教融合の傾向が強い宋朝の仏教を全体的に俯瞰するならば、華厳のみの優越性を強調した師会らの教学はどうしても浮いて見えるのは否めないが、彼らのような人々が現れたのは、義和によって智儼・法蔵の文献が新たに世に出されたことも大いに関係があろう。そして、その結果として慧因教院にある一派が築かれていったのである。
[註:『慧因寺志』巻四「檀那」には、宋の太祖を慧因寺の護持者のひとりとして挙げている。そこには、「元祖於上都、聞華厳賢首教、独盛於杭之慧因寺、遣使賚金、兼頒戒諭勒石、以垂永久」とある。慧因寺は宋の太祖(在位960-976)の頃より、華厳が盛んであったようである。]。
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