華厳祖庭


瓜洲(安西) 楡林窟


訪問年月日:2004年02月18日
訪問年月日:2006年07月31日


  2002年11月に引き続き、再び敦煌を訪れた。今回は前回訪れることのできなかった敦煌西千仏洞や安西楡林窟を再び花園大学國際禅学研究所所長の沖本克己教授ほか大学院生数名と共に訪れることができた。
  安西楡林窟の保存状態は良好で、とくに西夏時代の石窟は美術的価値が高く、西藏密教の影響が強いことや、宋朝の影響で水月観音などの優れた水墨画が存在することは特筆に値する。
 西夏は仏教を重視し、多くの佛典を数次にわたって宋朝より取り寄せ、西夏語に翻訳して大藏經を造っている。西夏の思想傾向はほとんど未解明であるが、チベットの密教に加え、華厳思想が根底に流れていたことは間違い有るまい。詳しくは、史金波「西夏仏教史略」などを参照されたいが、華厳思想を中心とした考察は、近いうちに論文を以て発表する予定である。

写真画像は、2006年訪問時のものにリニューアルしました。



楡林窟第29窟
楡林窟第29窟の国師像について
  楡林窟第29窟南側西壁には西夏の国師と供養者の像が描かれている。国師像には西夏文で付された題記がある。漢訳すると、「真義国師西壁智海」となるという。「西壁」は「昔華」・「昔壁」・「信畢」などとも訳されるが、史金波氏によって「西壁」は「西夏党項族的大姓」と解説されている[史金波『西夏仏教史略』寧夏人民出版社,1988.08. 第四章−三「石窟寺」 p.130]。

  しかし、「西壁」は「鮮卑」と訳すべきではないだろうか。蘭山雲巖慈恩寺護法國師一行沙門慧覺 依經録『大方広仏華厳経海印道場十重行願常遍礼懺儀』には、インド・中国・西夏で華厳を敷衍した各祖師が禮拜対象として列挙されているが、「大夏國弘揚華嚴諸師」として西夏の祖師を8人挙げる中、初祖の位地に「南無大方廣仏華嚴經中講經律論重譯諸經正趣淨戒鮮卑眞義國師」とある(Z-128.146a)。この西夏華厳初祖の真義国師こそ、楡林窟第29窟に描かれた真義国師にほかなるまい(以上、拙稿「国師からのメッセージ─ 西夏華嚴宗初祖としての楡林窟第29窟眞義國師像及び其の周邊の考察 ─」の摘要を参照されたい)。また、国師が着ている僧服および帽冠は、チベット仏教ニンマ派の特徴を示しているのではないかと思われるが、識者の御教示を請う次第である。

2006年7月31日、再び楡林窟を訪れ、念願の第29窟内部を参観することを許された。細くて天井の低い入り組んだ甬道を抜けると、そこには密教の世界が拡がる。このときは、国師像のある壁の模写作業の最中で、足場は悪かったが、模写の為の明るい照明を点けることができたので、煤けて黒ずんだ窟内を明るく照らし出すことができた。西夏文の題記を肉眼で確認するのは困難であるが、国師像は明瞭である。ただし、東壁の説法図を挾んで南北壁面にある水月観音の図は、かろうじて確認できる程度。周囲の竹の絵などははっきりとわかる。なぜ二つの水月観音が描かれたのか疑問が残る。中央にある説法図は明瞭だが、この窟が密教窟であり、そのプログラムからも、この説法図は毘盧舍那佛の代わりになるものではなかろうか。天井には、八葉の中に梵字が部分的に残っている。現存する主尊の塑像は清代に造られたものだが、莫高窟などにみられるような粗悪な塑像とは異なり一風変わった風体で、夜叉像も含めて芸術性が感じられる。
実際に参観することにより、多くのインスピレーションを受けることができた。普段、お金を積んでも見ることができない非公開窟の調査を特別に許可してくださった殷英所長に心より感謝申し上げる。
楡林窟第29窟の入口
楡林窟第29窟南壁東側上部の国師像

楡29主室南壁_男供養人(西夏)

楡29主室東壁_金剛(西夏)


瓜洲(安西)の《唐僧取経図》について
  楡林窟第3窟の普賢変には、普賢菩薩に向かって合掌する玄奘三藏が描かれ、その後ろでは白馬と共に猴行者(孫悟空)が描かれている。これは玄奘三蔵が天竺から仏典を持ち帰ってきた時の姿とされ、《唐僧取経図》と呼ばれる。このほか楡林窟には、第2窟の水月観音図、上に触れた国師像を有する楡林窟第29窟東壁(正面)の水月観音図中にも《唐僧取経図》が描かれている。
楡林窟第3窟(西夏開窟、元清重修)西壁
普賢変中に描かれた「唐僧取経図」
  敦煌地区には次の6副の唐僧取経図が発見されているが、そのうち4点が楡林窟から発見されており、これらの全てが西夏時代にかかるものであることは興味深い。
  玄奘がインドに行った物語は、玄奘が生きていた時代にすでに民間に流布していた。北宋の景佑三年(1036)、散文家の欧陽修が友人と揚州の寿寧寺に遊んだとき、唐僧取経図の壁画を見たとされている。残念ながら、寿寧寺も壁画もすでに存在しないが、それだけに安西の楡林窟、そして東千仏洞で西夏時代の唐僧取経図が発見されたことは大きな意義があると言えよう。
  瓜洲(2006年8月1日より、これまでの安西縣を元来の瓜洲縣と改名)は、玄奘がインドへ向かう途中に通った地方であり、その伝説がこの地に残っていたのが壁画の題材として好まれた理由であると説明されることがある。しかし、単にそのためだけであるなら、現存する唐僧取経図が全て西夏時代のものであるのは何故だろう。単に偶然なのか、それとも西夏時代の特徴なのか。背後に思想的、あるいはその他の理由が有ったように思えてならない。

 安西で唐僧取経図が発見された窟は以下のとおり。

 ・楡林窟第02窟(西夏;元清重修)西壁北側水月觀音圖中 ※善財童子あり
 ・楡林窟第03窟
(西夏;元清重修)西壁南側普賢變中 ※華嚴三聖圖之一
 ・楡林窟第03窟
(西夏;元清重修)東壁北側十一面千手千眼觀音變下部
 ・楡林窟第29窟
(西夏;元清重修)北壁兩側各一鋪水月觀音圖中
 ・東千佛洞第02窟
(西夏)甬道南壁。水月觀音圖中
 ・東千佛洞第02窟
(西夏)甬道北壁

  玄奘取経図について、秋本英雄氏の「アジア企画のホームページ」に説明と画像が掲載されている(「シルク‐ロードに孫悟空のルーツ発見!」)。このページを覧て御教示くださった同氏にこの場をかりて感謝する次第である。

楡林窟第3窟普賢変広範図
左中程に玄奘及び白馬を牽く猴行者の姿が見える

楡林窟第3窟普賢変(局部1)

楡林窟第3窟普賢変(局部2)

楡林窟第3窟文殊変広範図

楡林窟第3窟文殊変(局部1)

楡林窟第3窟文殊変(局部2)

楡林窟第3窟観無量寿経変(西夏)

楡林窟第2窟 水月観音
右下に玄奘と猴行者が描かれている
上掲画像の拡大図
色彩を加工すると見やすい

楡林窟第2窟団龍藻井(西夏)

楡25観無量寿経変壁画(中唐)

楡25窟観無量寿経変壁画局部−舞人

楡林窟第4窟 女供養人(元)



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