華厳祖庭


西安・華厳寺
ライン


訪問年月日:西暦2002年03月29日(午後)

関西大学東西学術研究所「起信論義記研究会」の一員として調査団に参加し、華厳寺を訪問。



  華厳寺は、陝西省西安市長安県に所在。西安市内から約15キロ。山の斜面に杜順と澄観の塔が聳えている。登り口には華厳寺の標識があり、車で登れる小径ができたが舗装はまだしていない。山を登ると「華厳寺」の額をもつ本堂が有り、そこからは樊川を俯瞰でき、西には神禾原を望むことができる。
  華厳寺の開創は貞元十九年(803)。清の乾隆年間に毀ち、煉瓦造りの二基の塔が残るのみ。陝西省第一批重点文物保護単位に指定されている。(陝西省人民委員会1956年8月公布)
  現住持は明圓法師。広東省の雲門寺に於いて佛源法師の下で得度。1997年より華厳寺住持となる。臺彎華嚴學會から送られた『華嚴行者懺法』の一部分を改変して『華嚴行者懺本』を発刊し、時折信者に講じているとのこと。寺のパンフレットと共に一人につき一冊を進呈された。
  寺の行事として、旧暦の4月初一日から初八日にかけて、毎年1回、祭祖法会を開いている。
  目下、寺は重修計画中。土地の買収をする段階で、建築物の建設には至っていないという。約10年前に日本の東大寺からも援助をしている。その他、臺彎の華厳蓮社・大華厳寺華嚴学会等から寄付があるが、重修計画は遅々として進んでいない模様。小生も僅かながら喜捨させて頂いた。


 

華厳寺の塔


画像の左側に映っているのが澄観の「妙覚塔」、右側に映っているのが杜順の「無垢浄光宝塔」。

  東側の塔は中国華厳宗初祖とされる帝心尊者杜順の塔である。
  方形七層、高さ13メートル。上層部に「厳主」の二字、第三層には「無垢浄光宝塔」の六字が刻られている。最下層は龕堂になっており、その中には石刻の像と像賛があり、石の下半部には清末の宋伯魯・宋聯奎等の書にかかる重修記が刻られている。また、大中六年(852)に刻られた『杜順和尚行記碑』が有ったが、現在は西安碑林博物館に収蔵されている。拓本の写真が『中国文化史蹟9陝西』(法蔵)に載録されており、内容を見ることができる。

杜順の「無垢浄光宝塔」
  西側の塔は中国華厳宗第四祖とされる清凉国師澄観の塔で、六角五層。高さ12.52メートル。塔上には「大塔清涼国師妙覚塔之塔」の十字が石刻されている。妙覚塔は西南に傾斜して塔身が崩れたため、1984-1986年にかけて解体し、少し北側に移築し組み立て直された。その際に、塔基の須彌座と、地下から石函が出土し、その中から淡黄色の浄瓶一つ、内装に五色石、水晶の舎利が発見されたほか、塔身の第三層からは明代の金銅製菩薩像一体が発見されている。  
澄観の「妙覚塔」
  元代に修復された時の碑文である『清涼国師妙覚塔記』は、結城令聞旧蔵の拓本の写真が『中国文化史蹟9陝西』(法蔵)に載せられており、冒頭から第三三行途中までの釈文が鎌田茂雄『中國華厳思想史の研究』(東京、東京大学出版会、1965年3月)pp.157-158に、それ以降の翻刻と書き下しが竺沙雅章『宋元仏教文化史研究』(汲古書院)pp.177-179になされている。この『妙覚塔記』は、裴休が撰した『妙覚塔記』を参照したものだが、元代の普瑞が『華厳懸談会玄記』巻第一で引用する裴休撰の『妙覚塔記』には無い記述が含まれている。
  また、妙覚塔の前には、次の如き識語が彫られた石碑が建っている。
 |    雍正十二年九月二十九日春/
 | 旨清涼觀着封妙正眞乘禅師欽此/
 | 西安府知府烏靈阿咸寧縣知縣陳齊賢奉文致祭勒石/
  雍正十二年は清代で西暦1734年。この石碑は、上部に清代のものと思われる額石が乗せられているが、碑文自体は上部と下部が欠けている。


妙覚塔の前の石碑



華厳寺本堂


永らく廃れていたが、最近になってようやく復興に着手されはじめた。 
華厳寺住持の
明圓法師と共に


突然調査に訪れた小生を快く迎え、華厳寺復興の経緯などを長時間に渉り説明してくださった。心より感謝申し上げたい。




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