華厳祖庭


京都・妙徳山華厳寺
ライン


 華厳寺は京都洛西松尾に所在。江戸時代中期の享保八年(1723)、華厳学の再興に力を注いだ奇代の学僧・鳳潭(ほうたん)上人によって開創された。現在は臨済宗永源寺派に属す禅寺である。
 松尾山麓によこたわる閑静な寺だが、入学・開運・良縁祈願に利益があり、親しく現住職・桂紹源師のお話が聞けるとあって、休日ともなると多くの参拝客で賑わう。寺内に多くの鈴虫がいて、季節に関わらず一年中鳴いていることから、「鈴虫寺」の名で一般に親しまれている。

 鳳潭上人は、元治二年(1659)−承応三年(1654年)とも−、越中国西礪波郡(一説には摂津国)に生まれ、元文三年二月二十六日(1738年4月14日)卒。名は僧濬。華嶺道人、または幻虎道人と号す。筆号は浪華子。
 16歳になる延宝二年(1674)、黄檗二傑の一人として名高い今井の法雲寺主・慧極道明禅師(1632〜1721)の室に投じて出家したが、黄檗一切経を上梓したことで有名な鐵眼道光禅師に事えることとなり、法名を僧濬、別号を菊潭と名づけられた。鳳潭と名乗ったのは、松尾に華厳寺を開創した後のこととされるが、確かなことはわからない。
 鳳潭上人は、はじめ比叡山で天台の教観を修め、京阪地方において大小顕密各宗を学び、華厳学は南都(奈良)で究めたという。
 渠が華厳を以て一代の業となすに至ったのは、延宝八年(1680)、21歳のとき、鉄眼禅師が東武に講教するにあたって、これに随行した際、鉄眼禅師から、「天下の十宗その一を欠く、賢首宗教振るわざること久し、われ恒にこれを悼む、濬や教を好む、汝それよろしく華厳教宗を興すを以て任とせよ」と嘱され、かつ禅師自筆の経題を賜ったのが動機であったという。かくして、室町期以来不振であった華厳学は彼によって再び盛り上がることとなる。


  華厳寺(鈴虫寺)ホームページ
  http://www.suzutera.or.jp




華厳禅寺山門へ至る階段


「鳳潭でら華厳寺」と書かれた石標


 草鞋を履いた地蔵菩薩。 この幸福地蔵に、名前と住所を告げ、心を籠めて一つだけお願いをすると、必ずこれに応えて御利益を下さる。
 学業成就もさることながら、とくに良縁成就や子授けに利益があるということで、20歳そこそこの若い女性たちが押し寄せ、熱心に祈願している。
 女子大生で賑わう寺というのも珍しい(?)。
山門脇に祀られている幸福地蔵


 鎮守・白龍大明神 妙徳山華厳禅寺山門


華厳寺本堂 本堂の額


  休日は、山門の外の一般道まで参拝客の行列が続く賑わい。ほとんどの人は和尚の話を聞くことが目的の様子。本堂の前あたりで順番を待っていても、本尊に合掌する人はそう多くない。法話が聞ける書院を一直線に目指している。本堂よりも法堂が賑わうのは、禅寺としては上々であると言えよう。それにしても、来る日も来る日も、法話を続ける方丈様には、寔に頭が下がる思いである。
書院

 境内は落ち着いた佇まい。

 画像ではいささか視にくいが、三角形や四角形など、珍しい形をした変形竹も、この寺の観どころの一つ。  

 開山・鳳潭上人をはじめ、先代住職などの墓塔が鎮まる聖域。


鳳潭上人の墓塔



 鳳潭上人の弟子覚洲(?〜1756)には、鳳潭の伝記をまとめた『華厳春秋』一巻(寫本、東大寺図書館蔵)がある。

 『華厳春秋』は、鎌田茂雄「覚洲鳩の華厳宗史観」(東京大学東洋文化研究所紀要』86、昭和56年11月)に原文が収録されている。
鳳潭上人の弟子・覺洲上座の塔
覺洲上座塔のアップ




開山墓からは、京都の街が見渡せる。
かつて鳳潭上人は、
ここから京の町並を眺めつつ思索し、
自らの華厳学を錬っていたことだろう。


華厳寺鳳潭和尚
(国立国会図書館所蔵『肖像集』・一)





 鳳潭上人の学風は、旧殻を破り仏教郷里を総合的に研究する今日的仏教学研究の先駆ともいうべきもので、諸宗兼学を旨として大小顕密の学に通達し、その博学さは群を抜いている。彼の教学の中心は華厳学であるが、早くに天台教学を学び、真言教学にも精通していた。ただし、天台の性具と華厳の性起を同一視し、真言教学の六大本有とも同じるなど、伝統的華厳学からは異轍とされる。華厳教学そのものに対しては、初期の智儼・法蔵による教学こそが華厳教学の正統であると決判し、唐末に現れた澄観・宗密や、これを禀ける宋代の子[王睿]・浄源の説を斥ける。しかし、これも智儼・法蔵・澄観・宗密…と列なる華厳宗の伝灯を掲げる南都東大寺の伝統教学からは、“天台寄り”として判じられ、江戸の長泉律院で華厳を講じた鳳潭律師(1707〜1781)が“唯識寄り”であるのと共に、参照する際には注意を要するとされる。

 渠の教学には、華厳・天台・真言の核心的教義を同じる傾向は有るが、彼は単なる融会論者ではない。むしろ強烈な批判的学風を有していることは、諸宗における宗学を厳しく論駁する姿勢が明らかに物語っている。そのため、真言・天台・浄土・禅などの諸宗の学匠と激しく論難を交わすこととなる。彼は確固たる自己の仏教観をもっており、各宗祖師の言辞の末節に留まることなく、その卓越した視点から独自な教学を打ち出したわけであるが、既に確立していた諸宗の伝統宗学とは相容れなかったのである。

 諸宗の学僧たちとの論難往復に係る渠の著作は頗る多い。鳳潭上人は宝永元年(1704)に江戸へ赴き、大聖道場において華厳を講ずる傍ら、多くの学匠と論戦往復して盛んに執筆活動を行い、京都松尾に華厳寺を建立した後も、浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などの学匠たちと論難往復して、当時の仏教界に大きな刺激を与えたのである。

 まず、鳳潭は華厳学の大成者である賢首大師法蔵の『起信論義記』に註して『起信論義記幻虎録』五巻を輯訂するが、真宗西山派の顕慧が『起信論義記幻虎録辨偽』三巻を以て論難を加え、これに対して鳳潭は『起信論義記幻虎録解謗』および『起信論義記幻虎録斥謬』の二書を著し、その中で顕慧を反駁した。

 また、法蔵の『五教章』に註した『五教章略匡真鈔』十巻は渠の代表作として知られ、現在でも『五教章』を解読する際に参照する文献の一つであるが、真言宗宝林学派の慧光は『密軌文辨』を著してこれを論難。鳳潭はこれに対して『圓宗鳳髓』二巻を著して答えている。

 また、『遍界紅爐雪』三巻を著して真言宗を難じたところ、真言宗の実詮は『一唾編』を著してこれに応酬したため、鳳潭は『紅爐反唾箚』を著して反論。実詮はこれに対して『反唾汚己情笑編』を著している。鳳潭は、更に慧光・実詮に加えて浄厳などの真言学僧に対し、『菩提心戒破文密軌文辨破書』を著して難じた。

 また、享保四年(1719)には、『鐵壁雲片』三編を著して『碧巌録』を評し、禅宗を論破している。

 享保五年(1720)には、三大部を学んだことのある天台安楽律院の光謙や、三井法明院の性慶との間で念仏に関して論争し、『念仏往生明導箚]』を撰したが、これに対して多くの反響があり、激しい論難往復を繰り返している。

 まず、浄土真宗の法霖の『浄土折衝篇』二巻に対し、鳳潭は『雷斧』二巻を著して応じ、更に知空に対して『指迷顕正決索印』二巻を著して答えた。そこで、法霖は更に『笑螂臂』五巻を、性均が『雷斧辨訛』一巻を著して酬した。

 また、浄土宗の義海は『蓮宗禦冠篇』二巻を著し、鳳潭はこれに応ずるに『雪鵝箋』一巻を以てした。義海は更に『雪鵝箋斷非』二巻を以て反論した。

 また、天台宗の守一の『蓮門却掃篇』二巻に対しては、『牙[旗-其+斤]』一巻を示した。守一は更に『牙[旗-其+斤]虚偽決』二巻を著してこれに対抗している。

 また、日蓮宗からは日諦の『窓燈塵壺篇』一巻、更に日達の『顕揚正理論』三巻および『決膜明眼論』四巻があるが、鳳潭は日達に対し『金剛槌論』一巻を著して反駁している。

 享保八年(1723;一説に宝永六年)、鳳潭は幕府の公認を得て山城洛西松尾に華厳寺を開創し、華厳典籍を相次いで刊行するが、元文三年(1738)二月二十六日、ここで遷化する。弟子に覚洲・学誉などがいる。

 上記のほか、華厳学に関する鳳潭の著作に次のものがある。
  • 『五教章傍註』三巻
  • 『探玄記玄譚』一巻
  • 『探玄記別検』一巻
  • 『華厳入法界品字輪頓証毘盧舍那法身観』一巻
  • 『圓覺經集註日本訣』三巻
  • 『圓門境觀還源策』一巻
  • 『楞嚴千百年眼髓』三巻
  • 『楞伽經會玄記』一巻
  • 『起信論註疏略訣』一巻
  • 『觀音纂玄紀』一巻
  • 『起信論註疏非詳略訣』一巻
  • 『戒體續芳訣』一巻
  • 『阿毘達磨倶舎論略釈記新鈔』一巻
  • 『倶舍論頌疏講苑』十四巻(倶舎論頌釈/倶舍論頌釋疏/冠註講苑倶舎論頌略疏/阿毘達磨倶舎論畧釈/阿毘達磨倶舎論略釈記) [(唐)円暉述;鳳潭撰]
  • 『因明入正理論疏瑞源記』八卷 [(唐)窺基撰;;鳳潭記]

 これらの他にも、西洋を中心とした世界観に対抗して作られたインドを中心とする世界地図『南瞻部洲萬国掌菓之圖など、小部のものや典籍の刊録にあたって記した跋文なども含めると彼の筆に成るものは頗る多い。

 鳳潭の学究姿勢は徹底したものがり、諸家の講筵に列し、内典外典を渉猟し、荻生徂徠や伊藤仁斎などの国学者や、富永仲基とも交流があった。





 鳳潭上人に関する研究論文
  • 脇谷僞謙「鳳潭普寂の華厳観-六相円融論に対する見解の相違-」 (『六條学報』44、1903.06.)
  • 河野法雲「華厳の鳳潭」 (『無盡燈』17−10、1912.01.)
  • 湯次了榮「鳳潭上人妄即真の梗概と批評」 (『六條学報』161、1915.03.)
  • 巨石「華厳の鳳潭」 (『密宗学報』82、1920.04.)
  • 結城令聞「鳳潭の華厳真言両大乗一致の思想に就て」 (『仏教研究』2、1937.07.)
  • 結城令聞「華厳鳳潭と真言宗宝林学派の論争」 (『仏教研究』3・4、1941.08.)
  • 結城令聞「「華厳鳳潭の研究──特に『起信論幻虎録』を中心として」(『干潟博士古希記念論文集』1964.06.)※上記結城氏論文3本は、後に『結城令聞著作選集(第二巻)華厳思想』(1999.12.10.)に転載
  • 結城令聞「霊雲寺慧光の円・密交際論」『結城令聞著作選集(第二巻)華厳思想』(1999.12.10.)
  • 結城令聞「華厳鳳潭の研究 特に起信論幻虎録を中心として」『干潟博士古稀記念論文集 / 干潟博士古稀記念会』1964.06.)
  • 鏡島元隆「華厳鳳潭と禅」(『日本仏教学会年報』16、1951.12.)
  • 鎌田茂雄「覚洲鳩の華厳宗史観」 (東京大学東洋文化研究所紀要』86、1981.11.)
  • 鎌田茂雄「日本華厳における信満成仏の解釈」『松ヶ岡文庫研究年報』4, 1990.03.25.)
  • 川口高風「鳳潭と光国の袈裟に関する論争」(『南都仏教』74, 1997.12.)
  • 小島岱山「『大乗起信論』と鳳潭」(『如来蔵と大乗起信論』春秋社,1990.06.30.)
  • 小島岱山「法蔵の「如来林偈」理解に対する鳳潭の見解」(『南都仏教』61・唯心偈特集, 1989.06.30.)
  • 秋田光兆「華厳鳳潭の天台義 特に性具・性起同一論について」(『天台学報』26, 1984.11.05.)
  • 高橋正隆「鳳潭の『扶桑続入総目録』」(『大谷学報 / 大谷大学大谷学会』228(60-4), 1981.01.30.)
  • 村松法文「大谷大学図書館蔵鳳潭肉筆雲華院蔵倶舎論光宝二記について」(『仏教学セミナー』12, 1970.10.30.)
  • 小林実玄「芳英の華厳研究について」『印度学仏教学研究』37(19-1), 1970.12.25.)
  • 塩崎幸雄「富永仲基と黄檗宗」(『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』27, 1994.05.)
  • 西村玲「日本近世における絹衣論の展開 禁絹批判を中心に」(『仏教史学研究』46-2, 2003.11.29.)
  • 佐々木瑞雲「日渓法霖の教学」(『真宗学』89, 1994.01.30.)
  • 亀川教信「行照の華厳五教章講筵筆録に就いて」(『龍谷学報』325, 1939.07.)
  • 瓜生津 隆雄「真宗学への反省」(『龍谷教学』4 芸轍特集号, 1969.06.30.)
  • 鷲尾順敬「鳳潭師より慧海師に復したる書簡に就いて」(『無盡燈』7-1)



華厳祖庭に戻る

華厳無盡海トップに戻る