華厳祖庭


龍門石窟 奉先寺洞
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訪問年月日:西暦2002年03月26日(午後)

関西大学東西学術研究所「起信論義記研究会」中国調査団の一員として、龍門石窟を訪問調査。午前中に嵩山少林寺と二程子墓(宋代理学の呈伊川・程明道およびその家族の墓)に参って来たことで、洛陽の龍門に到着したのは夕方近かったが、7年前に個人的に訪れた時とはまた違った感動が有った。
■中国洛陽・竜門石窟
 竜門石窟は中国三大石窟の一つとして知られている。洛陽市街から南へ14キロメートル、伊河に沿った、南北1キロメートルにわたる岩山に所在。古くは伊闕石窟寺と称し、495年、北魏の孝文帝が、大同から洛陽に遷都した頃から開鑿が始まり、東魏、西魏、北斉、隋、唐、北宋と、長い年月をかけて彫り進められた。2345箇所を数える石窟・石龕、10万体を超える仏像が彫られている。
 その隆盛期は、北魏期および初唐・盛唐期である。北魏期に造営されたものは全体の約三分の一を占め(古陽洞、賓陽中洞、蓮華洞、石窟寺、魏字洞、普泰洞、火焼洞など)、そのほかの約三分の二は、唐代に造営されたもの(潜渓寺洞、敬善寺洞、恵簡洞、奉先寺洞、獅子洞、万仏洞、極南洞、および、東山の大万五仏洞、擂鼓台南洞、擂鼓台北洞、看経寺洞など)。これら主要な30数窟のうち、大半は西山(龍門山)に所在する。なお、対岸の東山(香山)にも石窟や彫刻があり、他にも僧院窟が有ったと考えられるが、ほとんど保護はなされておらず、破損が激しい。南端に位置する香山寺は有名。また、龍門を愛した北宋の詩人・白居易(白楽天)の墓がある。
  1961年、中華人民共和国国務院により全国重点文物としての指定を受け、更に2000年には世界遺産に登録された。これにより、周囲の環境が整備され、以前とはかなり趣が異なった。石窟保護のため、一般の市内バスは入口から遠くはなれた駐車場までしか行けず、そこからは、送迎用の電気自動車に乗る。排気ガスが文物を損なうのを防ぐためにほかならない。龍門石窟入口の門に着き上を見上げると、「2000年11月30日聯合国教科文組織第24届世界遺産委員会」と記された文字が掲げられている。入場料60元(訪問当時)。


 
龍門石窟の中でも最大規模を誇る奉先寺洞
  岩山の山腹に幅33.5メートル、奥行38.7メートル、高さ40メートルという広大な空間を切り開き、その三方の壁に、高さ17.14メートルの盧舎那仏を中心として、迦葉・阿難の二大弟子、二菩薩、二天王、二力士の合わせて9尊の大像を彫り出している。 中尊台座に刻まれた開元10年(722年)の銘を有する『大盧舎那像龕記』によれば、高宗(在位649〜683年)の勅願に始まり、則天武后が化粧料二万貫を援助して、咸亨3年(672年)4月から上元2年(675年)12月までの、3年9ヶ月を費やして造立された。
  中尊の盧舎那仏の顔は、一説には則天武后の顔をうつしたものであるという。 また、唐に渡った弘法大師空海が、盧舎那仏坐像を目にして驚嘆、感激したとも伝えられる。空海が真言密教を伝来せんと誓を立てた奈良東大寺の盧舍那仏は、この像を意識していると言われる。
  盧舍那仏像の腰から下は風化によって崩れているものの、胸部から腹部にかけて量感が感じられ、均整の取れた体躯は実に芸術的である。大衣を通肩(左右両肩を衣で覆うこと)としているが、この様式は龍門の坐像としては珍しい例である。
奉先寺盧舍那仏坐像

  中尊のすぐ両側に位置する二大弟子像のうち、向って右側に侍る迦葉(画像中央二体のうちの左側)の崩れが著しい。
中尊の向かって右側に侍る
迦葉尊者と菩薩の立像
  他方、向かって左側の阿難(10.65メートル)は穏やかな表情を残す秀作である。

  二大弟子の外側、両脇侍の菩薩像の尊像名は特定できないが、やはり13.25メートルという大彫刻である。
  下半身にいくほど細くなり、バランスを失してはいるが、腰を左右に振る動きを見せている点や、薄手の衣を通して脚部の輪郭を露している点など、長安文化の影響をうかがわせる。 さらに、宝冠、胸飾り、瓔珞などの精緻な彫刻にも、見るべきものがある。
中尊の向かって左側に侍る
阿難尊者と菩薩の立像
 天王・力士の諸像は像高10メートル前後、躍動感溢れる姿を見せている。 向って右側、北壁の天王像は、右手に宝塔を捧げ、右脚を少し曲げて邪鬼を踏みつけ、憤怒の表情で前方を睨む。 また、力士像は身体を大きく「く」の字に曲げて腰を突き出し、筋肉を誇示するかのようである。
中尊の向かって右側(北壁)の
天王と金剛力士像
  南壁の天王・力士像は、惜しくも、かなり崩落してしまっている。
中尊に向かって左側(南壁)の
天王と金剛力士像

奉先寺洞全景

奉先寺窟の南側

奉先寺窟の東側



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