華厳祖庭


敦煌瓜洲縣 東千仏洞


訪問年月日:西暦2004年08月19日

 甘粛省敦煌市瓜洲縣(2006年8月1日より安西縣から従来の瓜洲縣に改名)に所在。
 敦煌市内より約200km、自動車で所要時間は道路が悪いので約4時間かかる。鎖陽城で鍵をとり、鑑護員と共に22kmの道程を行くのだが、ここからが特に道なき道となる。
 敦煌石窟研究国際学術会議の終了後、安西博物館研究員の李春元さん・甘肅省文物考古研究所の張寶璽先生のご案内で、まる一日をかけて訪問。友人である王洪波君のお父さんの車で市内から向かったが、敦煌からの道程は、途中まで舗装道路ができているものの、その後はかなりの悪路で、冒険気分を味わえる。秋本英雄氏による「アジア企画のホームページ」には、小生よりも前になるが同じ道程を通った際のビデオがUPされているので、参照されたい。


  東千仏洞石窟は、甘粛省瓜洲縣(安西縣)東南70kmの長山子北麓に位置する国家級重点文物保護単位である。接引寺と称され、古くは唐代の創建されたとされるが、五代・宋・西夏・元代に増修され、清の道光六年に重修されたというが、現存する窟は主に西夏時代に開かれたものである。

 西夏(1038-1227)は、11世紀初─13世紀初に今の中国西北部に興こったチベット系タングート(党項)族の拓跋氏(鮮卑族の一氏族)が統治した国家である。大夏国を自称するが、中原から見て西北部を占有していたので、一般には西夏と呼ばれている。宋朝の強い文化的影響を受けつつ、漢字を元にした所謂「西夏文字」を創るなど、独自の文化育成に努めるが、宋・遼・金といった周辺諸国との緊張関係が続いた末、風の如く砂漠に消えていった幻の国家である。

 宋の天聖九年(1031)、すなわち遼の太平十一年、宋・遼二国の属国であった党項(タングート)の首長を継いだ李元昊は、独自の元号を用い、興慶府(寧夏回族自治区銀川市)に都を定めた。その大慶三年(1038)に帝称して建国。国名を自ら「夏」と称し、元号を天授礼法延祚と改めた。以後、たびたび宋を脅かしたが、元徳五年(1124)、金(1115-1234)の属国となり、宝慶二年(1227)蒙古軍に敗れ、わずか10代で夏は滅亡した。往時の領土は、今日の寧夏・甘粛の大部分と陝西省北部・内蒙古・青海省の各一部分を占め、党項族・鮮卑族のほか、吐蕃族・回族・回鶻族・漢族などを包有していた。

 西夏にはポン教と称される民族宗教が存していたが、佛教を篤く尊崇し、敬佛供僧(佛を敬い僧侶に供養する)の風俗が濃厚で、域内に多くの寺院・廟宇を建立し、石窟を開いた。敦煌莫高窟・安西楡林窟・旱峡石窟・粛北五箇廟・酒泉文殊山・永昌聖容寺・武威天梯山などの石窟にはすべて西夏の寺廟遺跡が留存している。

 西夏は多くの石窟を重修したが、安西東千仏洞と楡林窟第2・3・29窟など幾つかの石窟は窟は新たに発展した窟形を示し、壁画の内容や藝術造形にも大きな特色を具有している。これらは唐・宋の漢画の作風を基に、吐蕃・回鶻の風格を接取している。

 東千仏洞には編号がふられている石窟が計8窟ある(そのほかに何も存在しない極めて小さく浅い窟や隧道が有るが編号は振られていない)。主要な石窟は第2・4・5・7窟。そのは全が西夏時代のものであり、とくに第2窟門道両側壁面には西夏の礼服を着た男女の供養人が描かれており、民族史研究や服装史研究の立場からも注目されている。これらの壁画には経変や多種の尊像画、水月観音といった佛教故事などが描かれているが、とりわけ蔵伝密教図像の存在が特徴的である。また、第02窟甬道両側の壁面には「唐僧取経圖」(猿行者と白馬を伴う玄奘三蔵が天竺より経を持ち帰るところの画)が描かれており、楡林窟第2・3・29窟に描かれているものと共に西夏壁画藝術中特筆すべきことの一つである。


敦煌石窟研究国際学術会議の会場。大会二日目の様子。

参加費は安くなかったが、同時通訳付きの素晴らしい学会でした。

テレビも来ていたようだ。

敦煌市内で夕風に涼みながら友人の家族とビール。学会も終わってホッと一息。

敦煌市内から高速道路で2年前に新しく移動した安西県の博物館へ行く。この街は出来上がったばかり。その後、申請鎖陽城で小休止を兼ねて東千仏洞の鍵を取り、そこから目的地・東千仏洞へ。附近はもうこういう道。

東千仏洞に向かう道。前方にもう見えているが…
中国の西の果て、安西東千仏洞へ向かう途中、道無き路を突っ走り、車のタイヤがスパークして見事に破裂。たとえうまく辿り着いても、帰れるのかどうか…。

砂漠を疾走する時は、スペアタイヤは多目に準備しておくべきですね。できれば、四輪駆動のランクルを使うべき。

完全に裂けてる。一つだけだがスペアタイヤが有って助かった。しかし、また同じことになったら帰れない。運転手をしてくれた王君のお父さん、愛車を傷つけての疾走、非常感謝。

莫高窟は世界遺産となり観光客も多いが、ここまで足を伸ばす人は少ない。

河を挾んで東側。案内をしてくださった安西博物館の李氏は、この石積みを積み上げた時の苦労話を懐かしげに話してくれた。

東千仏洞第2窟の入口

河を挾んで東側を北へ向かって撮影

河を挾んで西側

南側を撮影

東千仏洞を修理した際の碑。
クリックして画像を開き拡大したら文字が読めます。

中へ入るところ。たっぷり充分に調査をしました。かなり疲れます。

窟を繞るようにして隧道が掘られている。中には何も無く、沙で埋もれている。

西側の丘に登る途中で。第2号窟のある東側を撮影。

西側の丘の上から東側を望む。乗ってきた車が小さく見えている。

東側の丘の上から南側を望む。右側に小さく見えているのが管理小屋。左側に更に小さく見えているのが管理人の住居。お子さんが居られた。

証拠写真(東側の丘の上から)

記念撮影。左から、私・安西博物館研究員の李春元先生・東千仏洞を守っているおっちゃん・うちの副学長・甘肅省文物考古研究所の張寶璽先生

東千仏洞を見学し終えて、22キロ戻った所にある鎖陽城にて食事。東千仏洞の管理はここで行っている。

東千仏洞からの帰路。ちょっと休憩。羊飼いが放牧する夕景。






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